昨今、大企業の「ルール違反」とされる問題が幾度となく報道されています。
経営者として、ルールそのものに、どのように向き合っていったらいいのか、また、ルールの作り手側と守り手側が履き違えてはいけない趣旨は何なのか、それをお伝えするために、昨今、日本経済を騒がせている事例を採り上げつつ、今回のコラムを書きました。
そもそもルールとは、それがないと起こりうる弊害を未然に防ぐために作られて、関係者が合意の上で守るものですが、実際のところ、ルールを作ることと守ることだけが目的になってしまっているケースが多くの場面で見受けられます。
つまり、ルールを作ることと守ることが最終目的になってしまい、「何のためのルールなのか?」という目線が欠如しているケースです。
御存知のとおり、今年、国内大手自動車メーカーが新車検査を無資格の従業員にやらせていたということで、今まで品質の高さを世界的に誇ってきた日本のお家芸である製造業に対し、一気に逆風が吹き荒れています。
国が求める基準レベルの高さに能力的に耐え切れず、自分たちの都合で物事を進めてしまったのか、または要求水準を充たすための体制作りのコスト負担に耐えかねて手抜きをしたのか、いずれにしても、「守っています」と正面切って宣言しているにもかかわらず、実際は「守っていなかった」という事実だけが明らかになった訳です。
ことの良し悪しを論ずるのが本コラムの趣旨ではないので、その点はさて置くとして、このような事態に陥る場合の経営者の視点は、どのようなレベルなのでしょうか。
BtoB、およびBtoCのいずれの場合でも、ビジネス展開している会社が、その業界のルール遵守を求められるケースは多々ありますが、それが「何のために必要なのか」というと、そのビジネスに参加する企業同士が円滑にやり取りを行うため、ということもありますが、最大の目的は「エンドユーザーのため」です。別の言い方をするのであれば、ルールはエンドユーザーに主眼を置いたものであって然るべきで、エンドユーザー以外に主眼を置いたようなルールでは存在価値がない、ということです。なぜなら、エンドユーザーの需要のおかげで、その業界は存続できているからです。
さて、先に挙げた国内大手自動車メーカーの場合はどうでしょうか?
「有資格者が検査する」というルールは、「エンドユーザーの身の安全を守ること」が目的なのか、「有資格者に検査を実施させること」が目的なのか、報道の限りでは見えてきません。
これは言葉のあやではありません。エンドユーザーの身を守ることが目的であれば、別に検査担当を有資格者に限定する必要はなく、厳格に作り込んだ検査マニュアルを完全に実行することを義務付ければ目的に叶う訳です。その場合、有資格者だとか無資格者だとか、という区分は無用となります。
しかも、その不正(と言われる)行為が継続してきた期間において、「無資格者が検査を実施していたことが原因で、致命的な点検ミスが生じて交通事故に繋がった」といった話も聞こえてきません。
逆に、点検を担当したのが無資格者だったことが原因で事故が多発したのであれば、メーカーとしては致命的な過失であり、弁解の余地は到底ありません。しかし、報道の限りではそういった状況ではなく、ただ単に「有資格者に実施させるべき作業を無資格者にやらせたことがけしからん!」という論調です。
そこには、「そもそも有資格者に検査を義務付けている理由は何なのか?有資格者でなければ、能力的に実施困難な検査項目が含まれているのか?だから、エンドユーザーの身の安全を守るためには、検査担当は有資格者であることが求められているのか?」といった本質的な議論が為されていません。聞こえてくるのは、「検査担当は無資格者ではダメで、とにかく有資格者でなければならない」という論調です。
誤解していただきたくないのは、今回のような互いに合意したルールをあたかも遵守しているかのような態を装い、虚偽の報告をしてきたことそのものを肯定しているのではありません。こだわるべきは、そのルールに関して、作り手側が「何のためのルール作りなのか?」という命題に関してとことん検討を尽くした上でルールを作り、守り手側が「何のためのルール遵守なのか?」という命題に関してとことん検討を尽くした上でルールを受け入れたのか、ということなのです。
実は、経営者が会社内でルールを作り、社員に守らせる場合も同じことが言えるのです。
社員全員でそのルールを守ることが、企業という集団の統率が図れ、その集団から提供される商品・サービスをエンドユーザーが安心して買い、そして満足してくれる。そこを目指して経営者はルールを作り、社員はそのルールを守るのです。
ルールの作り手側と守り手側にエンドユーザー目線が不在だったとしたら、エンドユーザーから見て、その会社から生み出される商品・サービスに魅力を感じることはありません。エンドユーザーはその実態を即座に見抜き、やがては離れて行きます。つまり、この場合、ルールとしての存在価値はなく、それを土壌にして生み出される商品・サービスに魅力などないのです。
あなたはルールと向き合う際、エンドユーザーにフォーカスを当てますか?それとも自分たちにフォーカスを当てますか?