今週のコラム 「『盤石の財務基盤』を次世代へと繋ぐ」 [第29話] 不祥事が起きるのは、自社のレベルの低さを教えてくれるサイン

草津白根山の想定外の噴火や、日本列島全体がすっぽり冷凍庫に収まったかのようなシベリア寒気団の襲来など、自然の猛威をまざまざと見せつけられたこの1週間でした。

こういった大自然の力を前にすると人間の所業など取るに足らない程の小粒さにしか見えませんが、そうは言っても小粒の人間が引き起こす企業不祥事というものは看過できません。小粒だから気にしない、と言う訳にはいかないものです。

企業不祥事という括りで考える場合、トップ主導のもと組織ぐるみで手を染めるケースと、組織の中の一員が単独に手を染めるケースの2つに大別できます。

経営トップが陣頭指揮を執って不祥事を働くような会社は、間違いなく遅かれ早かれ社会から淘汰され消滅していく(一番至近の事例では、はれのひ、てるみくらぶ、でしょうか。)ので、今回は特に言及はしません。

今回言及するのは、組織の中の一員が起こす企業内不祥事のケースです。このタイプの不祥事を通じて、それを引き寄せる会社のレベル感、社員のレベル感というものを考えてみました。

経営者という立場上、不祥事は絶対に撲滅したいものです。そのためには、厳格な罰則規定を設けてペナルティーを周知したり、社内通報制度のような手段を用いて相互牽制を図ったり、いろいろと手を尽くします。こうしたあらゆる手を尽くしても、企業内不祥事がなくなることはありません。古今東西どこの国でも、です。

話が少しそれますが、私がここ数年来学んでいる自然哲学においては、「すべての物事は陰と陽でバランスを保っている」としています。陰陽論といいます。

日本の四季で言えば、冬という季節があるおかげで夏の解放感や素晴らしさが分かりますが、もし夏しか季節がなかったら、冬という引き立て役がいないため、夏の素晴らしさは誰にも分からない、と考えます。

また、高い山の荘厳さも小さな山があるおかげで分かりますが、世の中の山がすべて高い山ばかりだったら、小さい山という引き立て役がいないため、高い山の素晴らしさを誰も感じることができないし、「高い」という表現すら存在しない、と考えます。

また、善悪で考えると、善事が存在するからこそ、悪事の存在が認識され、善事悪事双方の定義が明確になるのです。仮の話、あくまでも仮の話ですが、この世の中に悪しか存在しなかったら、悪の定義は成立しなくなります。

なぜなら、悪の対極にある善が存在するおかげで、悪が定義付けられている訳ですから。

話を戻して、この陰陽論の考え方を企業内不祥事に当てはめるとどうなるでしょうか?

先に「経営者という立場上、不祥事は絶対に撲滅したいもの」と書きました。これは、経営者の意識の中で、不祥事は悪であり、一方で不祥事が起きない状況を善として捉えていることを背景にしています。

つまり、不祥事は常に起きるものという前提に基づいています。つまり、不祥事は常に起きうるものであるから、起きない状態を目指すべき、という視点レベルです。

しかし、不祥事は起きるものだという視点ではなく、経営者としてもう一段高いレベル、すなわち「不祥事の存在そのものが薄まるような環境を作ればよい」という視点も十分あり得るのではないでしょうか?

では、不祥事の存在そのものが薄まった環境とは何でしょうか?

それは「会社の商流(取引の流れ)と金流(おかねの流れ)がガラス張りになっている仕組み」、つまり「会社の損益があらゆる角度から見える化されている仕組み」を指します。これは、弊社が日頃御指導させていただいている仕組みでもあります。

この仕組みを構築する過程において、各業務プロセスの担当者は、自分の仕事が会社の中で「何のため」に存在し、自分の会社が社会の中で「何のため」に存在しているのかについて、深く知ることになります。

しかも、会社全体の仕事がバトンリレーさながらに繋がっていて、先行する業務プロセスから託された成果物に、自分の業務プロセスがどのような価値を付加して、後続の業務プロセスに託していくのか。

また、自分がどのような仕事をしたら最終的にお客様や会社の仲間が喜んでくれるのか、逆にどのような仕事をしたらお客様や会社の仲間に迷惑を掛けるのか。

これらのことを明確に知ることになります。

もし、口頭で説明を聞くだけであれば、とてもそこまで肚落ちはしません。せいぜい表面的な理解で終わってしまうのが関の山です。つまり、お勉強レベルにとどまるだけなのです。

私が、「社長はお勉強する必要はなく、勉強すべきは社員です。しかも、その社員も外部のお勉強セミナーに行く必要はありません。最高の教育の場は自社の現場の中にあるからです。」とセミナーやコラムを通して何度もお伝えしているのも、この仕組みこそが最高の社員教育の場であると確信しているからです。

しかも、仕組みは一度作ったらそれで終わりではなく、仕組みのメンテナンスは必要に応じて適宜行うことになるため、社歴の長い短いに関わらず、社員全員で継続的に仕組みそのものに関わっていくことになります。

会社の中での自分の存在価値、社会の中での自社の存在価値を常に認識し確認できる環境に身を置く社員の意識レベルが、不祥事を起こそうなどという意識レベルとはかけ離れた次元に位置することは明白です。

以上お伝えしてきたことは、企業内不祥事に対して無防備で構わない、という意味ではありません。

「不祥事は起きるものゆえ、あの手この手で起きないためのルールを作り会社全体を縛り付けるしかない」という経営者の陰陽論的な視点レベルを、さらに一段も二段も上げた「不祥事の存在そのものが薄まるような環境を整えればよい」という視点レベルで、自社の経営に取り組んでいかれることを期待しているのです。

あなたは、視点を低いままにして、レベルの低い問題を引き寄せていませんか?