今週のコラム 「『盤石の財務基盤』を次世代へと繋ぐ」 [第47話] 経営者は自分のビジネスに愛着を持ってはいけない。なぜか?

雑誌を読んでいると、経営者の談話として、「私は自分の仕事が大好きなので四六時中仕事のことを考えている。考えないのは眠っている時ぐらいでしょうか。いや、その眠っている時にも夢に仕事が出てくるくらいだから、結局は寝ても起きても仕事のことを考えているかも知れない。」といった内容をお見かけすることがあります。

24時間365日、ビジネスのことを考え抜く。確かに志をもって起ち上げたビジネスですから、人並み外れた情熱で取り組むことが経営者のあるべき姿でもありますし、賞賛すべき姿勢です。

著名な経営者にもそういう方はたくさんいらっしゃいます。例えば京セラ創業者の稲盛和夫氏などは、24時間365日、徹頭徹尾仕事のことを考え抜いておられたようです。まだ創業間もない頃などは、セラミック製品の焼成工程が思うようにならず、セラミックを焼成する釜の前から離れる気持ちになれず、製品を両手で抱きかかえるようにして睡眠を取り、工場に泊まり込んでいたそうです。

稲盛氏に限らず、自身のビジネスを愛する経営者の立ち居振る舞いを見ると、あたかもビジネスと自身が一心同体のようになっているように見える場合があります。だからこそ事業家として大成功を収めたように見られているのかも知れません。

しかし、本当にそうでしょうか?

自身の会社を零細企業から大企業にまで発展成長させた経営者は、一見すると一心同体のように見えるビジネスに対する取り組み方ですが、じつはそうではなく、似て非なる視点を持っているのです。

ビジネス、及び会社を大企業まで発展成長させた経営者は、一筋縄ではいかない視点を持っています。つまり、一見するとただ単にビジネスに自己同一化している、つまりビジネスを溺愛しているかのように見て取れるのですが、実は違います。

彼らは、自己同一化とは真逆、つまり自分をとことん薄めることにより、自らの抽象度を上げて、ビジネスや会社を俯瞰しているのです。合わせて、将来的にどういう会社にしたいのかというビジョンをブレない軸として持ち合わせているのです。

なので、その時点時点で展開しているビジネスは、極端な言い方をするならば、ビジョン実現のための手段の一つとしてしか捉えていません。

ビジネスを俯瞰できている(つまり、ビジネスに対して自己同一化していない)ので、ビジネスに過度の情が入るということもないのです。

ちなみに、経営者としてビジネスに過度の情が入った場合の弊害はどういったものになるでしょうか?

自身のビジネスに過度の情が入った場合、必然的に経営判断の純度が下がるため、質的にもタイミング的にも経営判断のレベルが落ちてしまいます。

事後解釈ですが、冒頭に紹介した稲盛氏においても、四六時中、ビジネスの事を考えていたのは事実と思いますが、決して自己同一化はしていなかったのではないでしょうか。もし、自己同一化しているような視点の低さだったら、京セラが単なる町工場から世界的メーカーに大成長するなどあり得ないからです。

その時々のビジネスに固執せず、「まずは京都一を目指そう。それが叶ったら次は日本一、それが叶ったらいよいよ世界一。」といった具合に、常にビジョン実現というブレない軸を持ち合わせていたからこそ、様々な新規事業を展開したり、絶妙なタイミングで友好的なM&Aも絡めながら、結果的にはセラミックにとどまらず、無数の電子機器を取り扱う巨大メーカーにまで成長できたのです。

ひと言で、経営者がビジネスに対して抱く「愛着」といってもいろいろな形がありますが、私がお伝えしたい経営者が備えるべき「愛着」の姿勢とは、ビジネスに自己同一化することではありません。あくまでも自分を薄めて、自己同一化することなく、俯瞰した思考状態でビジネスに対峙する姿勢です。

決してビジネスと一心同体になるのではなく、一定の距離感を保った愛着とでも言いましょうか。

だからこそ、経営判断がブレる危険性も極めて低くなるのです。

逆もまた然りで、その愛着がそのまま自己同一化に変化すると、ビジネスを溺愛しているような状態に陥ります。

これでは、非情な経営判断(たとえば、当該ビジネスの撤退)をしなければならないような時に、情が入っているが故に的確な判断ができなくなります。これはすなわち、会社そのものが窮地に追い込まれる危険性もあるのです。

経営者たるもの、ビジョン実現という大義名分のために、その時々に展開しているビジネスへの愛着を、俯瞰したレベルに保っていただきたいものです。

あなたは、自身のビジネスに自己同一化することなく、常に俯瞰する姿勢を自らに課していますか。