今週のコラム 「『盤石の財務基盤』を次世代へと繋ぐ」 [第72話] 「社長はエライ」かも知れないが、それは誰が決める?

企業にはトップとしてのリーダー、つまり社長がいます。

社長の下には、専務、常務、部長、課長、係長、・・・といった具合にヒエラルキー的に階層が連なっています。

最もシンプルに定義すると、社長とは、企業の外部との接点を最も多く担い、かつその責任を最も重く担っています。常務以下になるにしたがって、企業の外部と内部との接点の比重が、次第に外部から内部にシフトしていく、みたいな。

平たく言えば、社長が外部との関連で何か失敗をした場合、会社に及ぶその影響たるや甚大で、最悪の場合、社員が路頭に迷うことにもなりかねなません。

そういう意味では、社長が背負う重責は、会社の中で唯一無二と言っていいくらいの重さです。

だからこそ、社長は社内では絶対的な存在とも言えます。

給料だって最も高い。

しかし、経営者の皆さんに、ここで一歩立ち止まって考えて欲しいことがあります。

社長は社内では絶対的な存在だし、給料だって高い。しかし、そのことの正当性を担保しているのは何か?

平たく言えば、「社長はエライ」というのを、誰が決めているのですか?ということです。

現代哲学的な見方では、「自分の評価は自分自身では出来るわけがなく、自分の評価は周囲の評価を通してしか成り立たない」と考えます。

それはそうです。

たとえば、ある人が、「俺が思うに、俺は歌が抜群に上手い。だから、トップシンガーになれるはずだ!」と思い、来る日も来る日も、部屋に籠って、誰に聴いてもらう訳でもなく、ただ一人で歌いまくっていたとしたらどうでしょうか?

世界的なトップシンガーになれそうかどうかは、本人が決めるものではなく、周囲の人たちが決めるものです。

つまり、この場合、彼は自分の部屋から一歩外に踏み出して、周囲の人たちの評価を受ける状況に身を置いて初めて、自分がトップシンガーになれそうかどうかが分かるのです。たった一人で部屋に籠って歌っているだけでは何もならないのです。

社長も同じです。

社長が「俺は社長として、いろいろと仕事も取ってくるし、精神的な重圧にも日々向き合っている。だから、俺はこの会社で一番エライはずだ。」などと、自分で自分を評価していたら、会社の成長はそこまでです。

社長がエライかどうかは、社長自身が決めることでも何でもなく、周囲、つまり社員が決めることです。

「ウチの社長は誰よりも会社のことを真剣に考えていて、自分の事などそっちのけで、いつも我々の事を最優先で考えてくれている。」とか、

「ウチの社長は、我々が取引先から理不尽な要求を突き付けられたときは、必ず取引先に出向いて直談判をして、我々を守ってくれる。」とかいった、社長としての立ち居振る舞いを社員が常々見ているからこそ、「社長はエライ」となるのです。

社長自身が「社長はエライ」と何度叫んだとしてもそれは無意味で、社員が「社長はエライ」と一度でもつぶやく方が値千金なのです。

至近な例では、日産のカルロス・ゴーン氏の一件です。

事の仔細はまだ取り調べ中ですので、分からないことだらけですが、もしも、役員報酬がらみで取り沙汰されていることが事実ならば、彼は自ら「社長はエライ」と決めつけていたのでしょう。

日産の社員が「社長はエライ」と評価していたわけではなさそうですし、ゴーン氏自らが自分自身を評価していたということです。

今まで抱いていたイメージとは真逆なので、とても残念です。

ここで、今さらながらその言葉の重さを思い知るのが、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」です。

倫理的な解釈になりますが、人は他人との比較において、優れてもいないし、劣ってもいないのです。

その状況その状況で担っている役割が違うだけなのです。

社長だからエライ、という訳ではないのです。

京セラ創業者の稲盛和夫氏も次のように常々言っています。

「社長が社員より優れているわけではない。社長という役割を担っているだけだ。」と。

「社長はエライ」と評価するのは社長以外の周囲の人たちであって、その評価される状況下で社長は常々見られています。

その事を片時も忘れることなく、社長としての役割を全身全霊で果たし続けていかれることを心より願っています。